先週の土曜、いつもの喫茶店で古びた哲学書を開いていた。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』。正直、最初は何を言っているのかさっぱりだった。
でも、ある一節で手が止まった。
「幸福とは、魂が徳に従って活動することである」
42年生きてきて、幸福について考えなかったわけじゃない。でも、こんなふうに真正面から定義されると、妙に心がざわついた。
「エウダイモニア」という言葉
アリストテレスは幸福を「エウダイモニア」と呼んだ。直訳すると「よき精霊に守られている状態」。だけど、彼が意味したのはもっと能動的なものだ。
「よく生きること」「よくなすこと」。
つまり、幸福は状態じゃなくて、活動だという。受け取るものじゃなくて、自分で作り出すもの。
これを読んだとき、営業時代の先輩の顔が浮かんだ。彼はいつも数字に追われていたけれど、不思議と楽しそうだった。「田中、仕事は結果じゃない。どう取り組むかだよ」。当時は意味がわからなかったけれど、今ならわかる気がする。
「徳」とは何か
アリストテレスの言う「徳」は、なんだか堅苦しい。勇気、節制、正義、知恵……。道徳の教科書みたいだ。
でも彼の言う徳は、もっと実践的なものらしい。例えば「勇気」は、無謀と臆病の中間にある。怖いものを怖いと認めながら、それでも必要なときに立ち向かうこと。
娘の進路のことで妻と意見が割れたとき、僕は黙ってしまった。波風を立てたくなかったから。でもそれは勇気じゃなくて、臆病だったのかもしれない。
徳は、繰り返しの中で身につく習慣だとアリストテレスは言う。一回の英雄的行為じゃない。毎日の小さな選択の積み重ねが、その人の性格になる。
幸福は「活動」である
ここが一番刺さった。
幸福は「持っているもの」じゃない。年収でも、肩書きでも、フォロワー数でもない。自分の能力を発揮して、何かに取り組んでいるその瞬間にある。
思い返すと、僕が一番充実していたのは、難しいプロジェクトに没頭していたときだった。帰りは遅かったし、休日も仕事のことを考えていた。でも、不幸だったかと聞かれると、そうじゃなかった。
逆に、ボーナスが出て好きなものを買った直後は嬉しかったけれど、その嬉しさは三日で消えた。
幸福は、流れる水のようなものなのかもしれない。溜めようとすると濁る。流れ続けることで、澄んでいられる。
2500年前の問いかけ
アリストテレスが生きたのは紀元前4世紀。今から2500年近く前だ。インターネットもスマホもない時代の人が、僕の心をざわつかせる。
「あなたは今日、自分の能力を十分に発揮したか」 「あなたの選択は、徳に従っていたか」 「あなたは今日、よく生きたか」
答えに詰まる自分がいる。
でも、詰まるということは、考えているということだ。アリストテレスに言わせれば、これも「活動」なのかもしれない。
来週も、同じ喫茶店で、同じ本を開くつもりだ。