会社の帰り道、ふと立ち止まることがある。
「なんでこんなに疲れているんだろう」
別に体が悲鳴を上げているわけじゃない。仕事も順調だし、家族も元気だ。それなのに、どこか心が重い。この正体がわからないまま、何年も過ごしてきた。
最近、仏教の入門書を読んでいる。宗教というより、心の仕組みを解き明かす思想として読んでいる。そこで出会った言葉が、妙に腑に落ちた。
「一切皆苦」という診断
仏教の出発点は、「人生は苦である」という認識だ。
最初は正直、暗いなと思った。でも読み進めると、これは悲観論じゃないとわかった。医者が病気を診断するようなものだ。まず現実を正確に認識する。そこから治療が始まる。
ここで言う「苦」は、激痛のことじゃない。サンスクリット語で「ドゥッカ」。満たされない感覚、思い通りにならないもどかしさ。車輪の軸がずれているときの、あのぎこちなさ。
思い当たることがありすぎる。
昇進したのに、すぐ次が気になる。旅行を楽しみにしていたのに、終わりが近づくと憂鬱になる。欲しかったものを手に入れた瞬間、もう飽きている。
この「ずれ」の感覚。仏教はこれを2500年前から見抜いていた。
苦しみの原因は「執着」
なぜ苦しみは生まれるのか。仏教の答えはシンプルだ。執着。
変わるものを変わらないと思い込む。手に入らないものを求め続ける。自分という固定した存在があると信じる。このずれが、苦しみを生む。
去年、10年使った万年筆を失くした。たかが筆記具なのに、何日も落ち込んだ。「あの万年筆でなければダメだ」。今思えば馬鹿らしいけど、当時は本気だった。
執着は、対象がなくなったとき牙を剥く。でもこの世界で、なくならないものなど何もない。
中道という処方箋
じゃあ、何も求めなければいいのか。欲望を殺せばいいのか。
ブッダの答えは「否」だった。彼自身、6年間の苦行の末にこう悟った。極端な禁欲も、極端な快楽追求も、どちらも道を外れている。
中道。
真ん中を歩くこと。これが仏教の処方箋だ。
具体的には「八正道」という8つの実践がある。正しい見方、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生業、正しい努力、正しい気づき、正しい集中。
「正しい」という言葉が並ぶと説教くさいけど、要は「バランスを取れ」ということだと僕は理解している。
働きすぎず、怠けすぎず。求めすぎず、諦めすぎず。
「今、ここ」に戻る
仏教の瞑想を始めて3ヶ月になる。毎朝10分だけ。座って、呼吸を観察する。それだけ。
最初は雑念だらけだった。今もそうだ。でも、雑念が浮かんだことに気づいて、また呼吸に戻る。この繰り返しに意味がある。
気づいたことがある。僕の苦しみの大半は、「過去の後悔」か「未来の不安」だ。今この瞬間に、実際に起きている苦しみは、思ったより少ない。
電車で隣の人に足を踏まれた。それ自体は5秒の出来事だ。でも僕は、「なんで謝らないんだ」と30分怒っていた。苦しみを25倍に増幅していたのは、僕自身だった。
手放すことで、軽くなる
仏教は、何かを得る教えじゃない。手放す教えだ。
執着を手放す。固定観念を手放す。「こうあるべき」を手放す。
それは喪失じゃない。解放だ。
最近、少しだけ心が軽くなった気がする。万年筆を失くしても、「まあ、そういうこともある」と思えるようになった。会議で自分の意見が通らなくても、夜中まで引きずらなくなった。
完全に執着がなくなったわけじゃない。たぶん、一生かかっても無理だろう。でも、執着している自分に「気づける」ようにはなった。
ブッダは言った。「怒りを抱くことは、熱い炭を素手で持つようなものだ。火傷するのは自分である」。
熱い炭を持っていることに気づいたら、手を開けばいい。それだけのことを、僕は42年かけて学んでいる。