「神よ、変えられないものを受け入れる平静を、変えられるものを変える勇気を、そしてその違いを見分ける知恵を与えたまえ」

有名な「ニーバーの祈り」だ。これがストア哲学の核心をついていると知ったのは、最近のことだ。

制御の二分法

ストア哲学者のエピクテトスは、奴隷だった。主人に足を折られたこともある。それでも彼は「自由」について語り続けた。

彼の教えの中心にあるのが「制御の二分法」。

世界には、自分で制御できるものと、できないものがある。制御できるのは、自分の判断、意志、欲求だけ。それ以外――他人の行動、天気、経済、健康、評判――はすべて制御の外にある。

幸福の秘訣は単純だ。制御できるものに全力を注ぎ、できないものは受け入れる。

頭ではわかる。でも実践は難しい。

雨の日の出社

先月、大事なプレゼンの日に大雨が降った。電車は遅延し、靴はびしょ濡れ。会議室に着いたときには、すでにイライラが頂点に達していた。

プレゼンは散々だった。集中できなかったのは、天気のせいじゃない。天気に怒っていた自分のせいだ。

あとで反省した。雨は制御できない。電車の遅延も制御できない。でも、「雨が降っても平静でいる」ことは制御できたはずだ。

マルクス・アウレリウスは言った。「外的な事物によって乱されるとき、苦痛を与えているのはその事物ではなく、それについての君の判断である」。

雨が僕を不幸にしたんじゃない。雨を「不幸の原因」と判断した僕自身が、自分を不幸にした。

感情は選べる?

ストア哲学の急進的な主張は、「感情は選択である」という点だ。

出来事そのものは中立。怒りや悲しみは、出来事に対する「解釈」から生まれる。解釈を変えれば、感情も変わる。

最初、これは冷酷に聞こえた。悲しんでいる人に「解釈を変えろ」と言うのか?

でも、よく考えると違う。ストア哲学者も悲しみを否定しない。彼らが言っているのは、悲しみに「支配される」必要はない、ということだ。

悲しみを感じつつ、その悲しみを観察する。「自分は今、悲しんでいるな」と認識する。その一瞬の間合いが、感情の奴隷と感情の主人を分ける。

毎朝の準備

マルクス・アウレリウスは、ローマ皇帝だった。権力の頂点にいながら、毎朝こう自分に言い聞かせていたという。

「今日、私は干渉好きな人間、恩知らずな人間、傲慢な人間、不誠実な人間、嫉妬深い人間、偏狭な人間に出会うだろう」

期待値を下げているわけじゃない。現実を直視しているだけだ。人間には欠点がある。それを毎朝思い出すことで、実際に嫌な目に遭ったとき「想定内」と思える。

僕も最近、朝の電車で試している。「今日も満員だろう。押されることもあるだろう。でも、それは制御できない。自分の反応だけは、自分で選べる」。

効果は、ある。少なくとも、押されたときに心の中で毒づく回数は減った。

人生という競技

ストア哲学者たちは、人生をゲームに喩えることがあった。

重要なのは「勝つこと」じゃない。「正しくプレーすること」だ。結果は制御できない。でも、どう取り組むかは制御できる。

仕事で企画書を出す。採用されるかは上の判断だ。でも、全力を尽くして書いたかどうかは、自分が一番よく知っている。

結果が出なかったとき、「自分は最善を尽くした」と言えるかどうか。それがストア哲学的な幸福の基準だと思う。

困難という練習台

興味深いのは、ストア哲学者たちが困難を「嫌なもの」と見なしていないことだ。

困難は、徳を発揮する機会。筋トレのようなものだ。重りがなければ筋肉は育たない。困難がなければ、人格は鍛えられない。

エピクテトスは言った。「困難に出会ったら、こう考えよ。これは神が私を試している。立派な選手であることを証明する機会だ」。

奴隷として鞭打たれた経験のある人の言葉だ。重みが違う。

今日できること

壮大な話になったけれど、ストア哲学の実践は地味だ。

今日一日、何が自分の制御下にあり、何がないかを意識する。制御できないことで心を乱されたら、「これは制御外だ」と自分に言い聞かせる。制御できることには、淡々と取り組む。

それだけ。

でも「それだけ」を毎日続けるのが、一番難しい。2000年前の奴隷上がりの哲学者が、今の僕に語りかけている。「君は今日、自分の制御できることに集中したか?」と。20260106_093150_d0d7c976.png