「エピキュリアン」という言葉がある。美食家、快楽主義者という意味で使われる。高級レストラン、ワイン、贅沢な暮らし。
でも、本物のエピクロスを知ったとき、僕は驚いた。
彼はアテネ郊外の質素な庭で暮らし、パンと水で満足し、友人たちと哲学を語り合うことを最高の幸福としていた。現代の「エピキュリアン」のイメージとは、まるで正反対だ。
快楽とは何か
エピクロスは確かに「快楽」を人生の目的とした。でも、彼の言う快楽は、僕たちがイメージするものと違う。
彼が重視したのは「アタラクシア」。心の平穏、動揺のない状態。積極的な快楽(美味しいものを食べる、興奮する)ではなく、消極的な快楽(苦痛がない、不安がない)こそが真の幸福だという。
これを初めて読んだとき、ピンとこなかった。苦痛がないだけで幸せと言えるのか?
でも、一週間ほど風邪で寝込んだあと、普通に歩けることの幸福を感じた。何も特別なことはない。ただ熱がなく、咳が出ず、普通にご飯が食べられる。それだけで世界が輝いて見えた。
エピクロスが言いたかったのは、こういうことかもしれない。
欲望の分類
エピクロスは欲望を三つに分けた。
自然で必要な欲望:飢えを満たす食事、渇きを癒す水、寒さを防ぐ住居。これらは追求してよい。むしろ満たすべきだ。
自然だが必要でない欲望:美味しい食事、快適な住居。あれば嬉しいが、なくても生きていける。ほどほどに。
自然でも必要でもない欲望:名声、富、権力。これらは際限がなく、追求しても満たされることがない。
この分類を知って、自分の欲望を振り返ってみた。
新しいスマホが欲しい。でも今のスマホ、壊れているわけじゃない。これは「自然でも必要でもない欲望」だ。買えば一週間は嬉しい。でもすぐ慣れる。次のモデルが気になりだす。
エピクロスの言う通り、際限がない。
友情という財産
エピクロスが最も重視したのは、友情だった。
「すべての手段のうち、幸福な人生を送るために知恵が用意したもので、友情の獲得ほど大きなものはない」
彼の「庭園」には、奴隷も女性も、当時の社会ではアウトサイダーとされた人々も出入りしていた。そこで彼らは対等に語り合い、簡素な食事を共にした。
去年の忘年会で、大学時代の友人たちと再会した。安い居酒屋で、特別な料理が出たわけじゃない。でもあの数時間は、どんな高級レストランより幸せだった。
エピクロスなら「そうだろう」と頷くと思う。
恐怖からの解放
エピクロスの哲学には、もう一つの柱がある。恐怖からの解放。
人間を不幸にする二大恐怖。死への恐怖と、神罰への恐怖。エピクロスはこの両方に対する処方箋を出した。
死について彼は言った。「死はわれわれにとって無である。われわれが存在するとき、死はまだ来ていない。死が来たとき、われわれはもう存在しない」
つまり、死と僕たちは決して出会わない。なぜ存在しないものを恐れるのか。
神について彼は言った。神がいるとしても、人間のことなど気にしていない。宇宙は広大で、神には神の楽しみがある。人間一人一人を監視して罰を与えるほど暇じゃない。
乱暴な議論に聞こえるかもしれない。でも、「いつか罰が当たるんじゃないか」という漠然とした不安を抱えている人は多い。エピクロスは「そんな心配は無用だ」と言い切った。
隠れて生きよ
エピクロスの有名な言葉に「隠れて生きよ」がある。
政治的野心、社会的成功、他人からの評価。これらを追い求めることは、心の平穏を乱す。静かに、目立たず、友人たちと穏やかに暮らすこと。それがエピクロス的な理想の生き方。
現代社会では難しい教えだ。SNSで「いいね」の数を気にし、他人と自分を比較し、「成功」をアピールすることが当たり前になっている。
でも、そういう生活が本当に幸せか?
日曜の昼下がり、何の予定もなく、妻とソファで映画を見ている時間。娘が珍しく「お父さん」と話しかけてきて、学校の話を聞く時間。誰に見せるわけでもない、静かな幸福。
エピクロスは2300年前に、こういう幸福を指し示していた。
「足るを知る」の原点
エピクロスを読んでいると、老子の「足るを知る」や、日本の「少欲知足」という言葉が浮かぶ。洋の東西を問わず、賢者は同じところに行き着くのかもしれない。
多くを望まず、今あるものに満足し、大切な人との時間を慈しむ。
シンプルだけど、実践は難しい。なぜなら僕たちは「もっと」を求めるよう訓練されているから。広告は「まだ足りない」と囁き続ける。SNSは「他人はこんなに輝いている」と見せつける。
それでも、時々立ち止まって考えたい。
今日、僕が食べたものは美味しかったか。今日、僕は大切な人と話せたか。今日、僕の心は穏やかだったか。
エピクロスの快楽主義は、「もっと」の追求ではなく、「今」の味わい方だった。