実家に帰ると、仏壇に手を合わせる。正直、最初は形式的だった。「やらないとおふくろがうるさいから」程度の動機だった。
でも最近、その時間が少し違って感じられる。
線香の煙を見つめながら、祖父のことを思い出す。あまり話さない人だったけど、正月に会うと必ずお年玉と一緒に「勉強しているか」と聞いてきた。その声を、仏壇の前で思い出す。
儒教について調べ始めたのは、そんな経験がきっかけだった。
「仁」という概念
儒教の中心にあるのは「仁」。思いやり、慈しみ、人を愛すること。
孔子は弟子に聞かれた。「仁とは何ですか」。答えはシンプルだった。「人を愛することだ」。
でも、儒教の「愛」は、博愛ではない。まず親を愛し、兄弟を愛し、そこから徐々に外へ広げていく。いきなり「人類を愛せ」とは言わない。
これを読んで、なるほどと思った。
SNSで見知らぬ人の投稿に怒ったり、世界の不正義に憤ったりする。でも、隣にいる妻の機嫌に気づかない。職場の後輩が悩んでいることを知らない。
遠くの他人より、まず目の前の人を。儒教の教えは、そういうことなのかもしれない。
五つの人間関係
儒教は「五倫」という五つの基本的人間関係を重視した。
父子の親:親と子の間には親愛がある。 君臣の義:上司と部下の間には義理がある。 夫婦の別:夫と妻には役割の違いがある。 長幼の序:年長者と年少者には順序がある。 朋友の信:友人同士には信頼がある。
古臭いと感じる人もいるだろう。特に「夫婦の別」は、現代の平等観とは相容れない部分がある。
でも、核心は別のところにあると僕は思う。人間は関係性の中で生きているということ。一人で完結する人間などいないということ。
僕という人間は、父の息子であり、妻の夫であり、娘の父であり、会社の社員であり、友人の友人だ。これらの関係を大切にすることが、幸福の土台になる。
礼という潤滑油
儒教でもう一つ重要なのが「礼」。作法、儀式、マナー。
形式主義だと批判されることもある。中身より形が大事なのかと。
でも孔子は、礼を「仁を表現する形」と考えていた。
相手に頭を下げる。感謝を言葉にする。季節の挨拶を送る。これらは形式だけど、その形式を通じて思いやりが伝わる。
僕は電話よりメールが楽だと思っていた。でも最近、大事な取引先には意識的に電話をかけるようにしている。声のトーンで伝わるものがある。文字では伝えきれない「敬意」が、声には乗る。
礼は、関係性を維持するための知恵なのだと思う。
「修身斉家治国平天下」
儒教には有名な言葉がある。「修身斉家治国平天下」。
まず自分を修め、次に家を整え、それから国を治め、最後に天下を平らかにする。
順番が大事だ。自分が乱れていては、家を整えられない。家が乱れていては、国を治められない。
壮大な話に聞こえるけど、要は「まず足元から」ということだと思う。
会社で大きなプロジェクトを任されたとき、張り切りすぎて家庭が疎かになった。娘が「お父さん、最近いないね」と言った夜、ハッとした。プロジェクトを成功させても、家が壊れたら意味がない。
世界を変えたいなら、まず自分を。組織を変えたいなら、まず自分を。儒教の教えは、2500年経っても色褪せない。
継承という時間軸
儒教が独特なのは、時間軸の長さだと思う。
祖先を敬い、子孫のために生きる。自分一代で完結しない。過去と未来に開かれている。
親父が「お前は大学を出せた」と言ったことがある。親父自身は高卒で働き始めた。その悔しさがあったから、僕を大学に行かせた。僕は今、娘を大学に行かせようとしている。
これは連鎖だ。親父が僕に渡したバトンを、僕は娘に渡す。
幸福は一人で完結しない。先人が作ってくれた土台の上に立ち、次世代のために何かを残す。この繋がりの中に、生きる意味がある。
現代の「仁」
儒教は封建的だという批判がある。確かに、時代にそぐわない部分もある。
でも、人との繋がりを大切にするという核心は、今も有効だと思う。
孤立する人が増えている。SNSで繋がっているはずなのに、孤独を感じる人が増えている。関係性が希薄になり、コミュニティが崩壊しつつある。
そんな時代だからこそ、儒教の知恵を思い出したい。
まず、目の前の人を大切にすること。形式的でもいいから、感謝を伝えること。家族との時間を、仕事より後回しにしないこと。
仏壇に手を合わせる時間が、最近は少し長くなった。祖父に報告することが増えたからだ。「今年、娘が高校に受かったよ」「仕事で少し認められたよ」。
返事はない。でも、繋がっている感覚がある。それが僕にとっての幸福の一部なのだと、今は思える。