ゴールデンウィークの最終日、何の予定もなかった。
普段なら焦る。「何かしなきゃ」「時間がもったいない」。でもその日は、なぜか違った。ベランダで珈琲を飲みながら、ぼんやり空を見ていた。雲が流れていく。鳥が鳴いている。それだけ。
2時間くらい、本当に何もしなかった。そして不思議なことに、それが最近で一番幸せな時間だった。
老子の言葉を思い出したのは、その夜のことだ。
「無為」という逆説
老子の思想の核心は「無為」。文字通りに訳せば「何もしない」。でも、これは怠惰の勧めじゃない。
「無為にして為さざるは無し」
何もしないことで、何もなされないことはない。禅問答のようだけど、意味はある。
人為的に操作しない。力ずくで押し通さない。流れに逆らわない。そうすることで、かえって物事がうまく進む。
営業時代、どうしても契約が取れない時期があった。焦って押せば押すほど、相手は引いていく。上司に言われた。「田中、一回力を抜け」。力を抜いたら、不思議と契約が決まり始めた。
老子は2500年前から知っていたのだ。力んでも、うまくいかないことがあると。
水のように
老子は水を最高の比喩として使った。
「上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず」
水は低いところに流れる。どんな形の器にも収まる。柔らかいのに、岩を穿つ。強さを誇示せず、静かに、確実に、自分の道を行く。
会議で激論を交わすことがある。自分の意見を通すために、声を大きくし、理論で武装し、相手を論破しようとする。たまに勝つ。でも、勝っても後味が悪い。関係が壊れていることに、後から気づく。
水なら、そうはしなかっただろう。相手の形に合わせ、低いところを探し、ゆっくり浸透していく。時間はかかっても、確実に目的地に着く。
「道」に従う
老荘思想の「道(タオ)」は、言葉で説明できない。老子自身がそう言っている。「道の道とすべきは常の道に非ず」。説明できるような道は、本当の道じゃない。
それでも敢えて言葉にするなら、「自然の摂理」「宇宙の根本原理」のようなものだと思う。
人間は知恵がある分、自然から離れてしまう。計画を立て、目標を設定し、結果を追い求める。でもそうやって追いかけるほど、大事なものが逃げていく。
娘が小さかった頃、一緒に公園で遊んだ。僕は「効率的に遊ばせよう」と思っていた。ブランコに乗せて、滑り台をさせて、砂場で遊ばせて。でも娘は、道端のアリをじっと見つめて動かない。
「早く行こう」と急かす僕。アリを見続ける娘。
今思えば、道(タオ)に近かったのは娘の方だった。
小国寡民の理想
老子の理想社会は「小国寡民」。小さな国、少ない民。
テクノロジーがあっても使わない。隣の国と鶏の鳴き声が聞こえる距離にいても、一生行き来しない。それで満足する。
現代人には理解しがたい理想だ。僕たちは「もっと」を求めるよう教育されてきた。成長、拡大、グローバル化。立ち止まることは後退だと。
でも、本当にそうだろうか。
コロナ禍で在宅勤務になったとき、最初は不便だった。でも慣れてくると、通勤電車の疲れがなくなり、家族との時間が増え、読書をする余裕ができた。世界が小さくなったことで、僕の生活は豊かになった。
老子は極端かもしれない。でも、「小さくても満ちている」という感覚は、大事にしたい。
荘子の遊び心
老子の思想を引き継いだ荘子は、もっとユーモラスだ。
彼の本には、巨大な魚が鳥になって飛んでいく話や、骸骨と議論する話や、蝶になった夢を見て「自分は蝶の夢を見ている人間か、人間の夢を見ている蝶か」わからなくなる話が出てくる。
真面目に「道」を説く老子に比べて、荘子は笑いながら語る。でも、言っていることの本質は同じだ。
常識を疑え。固定観念を捨てろ。大きいから偉い、小さいから劣る、そんな価値観は人間が勝手に作ったものだ。
荘子に「出世しなくていいのか」と聞いた役人がいる。荘子は泥の中で遊ぶ亀の話をした。「その亀は、祭壇に祀られた立派な亀より幸せだ。なぜなら生きているから」。
出世して死んだ亀と、泥の中で生きている亀。どちらが幸せか。答えは明らかだ。
何もしない時間を持つ
老荘思想を実践するのは、現代社会では難しい。仕事があり、家庭があり、やるべきことが山積みだ。
でも、意識的に「何もしない時間」を持つことはできる。
日曜の午後、予定を入れない。スマホを置く。やるべきことを忘れる。窓の外を見る。珈琲を飲む。ただ、ここにいる。
生産性ゼロの時間。でも、その時間こそが、自分を取り戻す時間なのかもしれない。
老子は言った。「企てる者は立たず、跨ぐ者は行かず」。つま先立ちで背伸びしても、長く立っていられない。大股で急いでも、長くは歩けない。
ゆっくりでいい。焦らなくていい。何もしなくていい。
その許可を自分に出すことが、こんなに難しいとは思わなかった。でも、出せたときの安堵感は、何物にも代えがたい。