「嘘をついてはいけない」
子どもの頃から言われてきた。でも、嘘をつかないと誰かが傷つく場面に、何度も出くわした。
営業時代、上司に「あの契約、取れそうか」と聞かれた。正直、難しかった。でも「微妙です」と言えば、案件を外される。だから「なんとかします」と答えた。嘘だった。
その嘘で契約が取れたわけじゃない。でも、時間は稼げた。結果的に、なんとかなった。
この嘘は、正しかったのか。間違っていたのか。カントならなんと言うだろう。
定言命法という厳格さ
イマヌエル・カントの倫理学は、厳しい。
「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
難しい言い回しだけど、要するに「自分のルールが全員のルールになっても大丈夫か考えろ」ということだ。
嘘をついてもいい、というルールを全員が採用したらどうなるか。誰も誰の言葉も信じなくなる。コミュニケーションが成り立たなくなる。だから嘘はダメ。例外なく。
カントに有名な思考実験がある。殺人犯が「あいつはどこだ」と聞いてきた。あいつは自分の家に隠れている。嘘をついて「知らない」と言えば、あいつは助かる。真実を言えば、あいつは殺される。
カントの答え:嘘をつくな。
僕は最初、これを読んで「冗談だろ」と思った。目の前で人が殺されるのに、正直でいろと?
結果より意志
カントの論理を理解するには、「結果より意志」という原則を知る必要がある。
行為の善悪は、結果で決まらない。動機で決まる。義務感から、正しいことをしようとする意志。これを「善意志」とカントは呼んだ。
殺人犯の例で言えば、嘘をついて友人を救っても、それは「善い行為」ではない。結果はたまたま良かっただけ。逆に、真実を言って友人が殺されても、真実を言おうとした意志は善い。
納得できない人も多いだろう。僕もまだ完全には納得していない。
でも、カントの言いたいことの核心は、別のところにあると思う。
人間を手段にするな
カントのもう一つの定式がある。
「汝の人格においても他のすべての人の人格においても、人間性を常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」
これは腑に落ちる。
人を道具にするな。利用するな。その人自身の価値を認めろ。
部下を「数字を作る機械」として見たことがある。後輩を「自分の評価を上げる道具」として使ったことがある。そのとき、僕は人間を手段にしていた。
カントに言わせれば、それは不道徳だ。たとえ結果的に部下や後輩が成長しても、僕の意志が間違っていたら、善い行為ではない。
義務の厳しさ
カントの倫理学は、幸福を約束しない。
正しいことをすれば幸せになれる、とは言っていない。正しいことをするのは、幸せになるためじゃない。正しいから正しくするのだ。
これは厳しい。ご褒美がないのに、なぜ正しくあるべきなのか。
カントの答えは、「人間の尊厳」にある。
人間は理性を持つ。理性があるから、善悪を判断できる。善悪を判断できるから、正しい選択ができる。この能力こそが人間の尊厳であり、それを使わないのは自分を貶めることだ。
正しくあることは、幸福の手段じゃない。人間であることの証だ。
見返りを求めない正しさ
僕はまだ、カントのような人間にはなれていない。正直、見返りがないと頑張れない。
でも、時々、見返りを求めない正しさを実感することがある。
電車で席を譲る。相手が何も言わずに座ることがある。感謝されなかった。でも、「席を譲る」という判断は正しかった。それで十分じゃないか。
落とし物を届ける。お礼はない。でも、届けないより、届ける方が正しい。
こういう小さな場面で、カントの言う「義務からの行為」を少しだけ理解できる気がする。
希望としての道徳
カントは最後に、希望を語った。
純粋な道徳は、幸福を約束しない。でも、道徳的な人間が幸福であってほしい、という願いは持てる。その願いが「神」や「来世」の根拠になると。
宗教的に聞こえるけれど、僕は別の読み方をしている。
正しく生きる人が報われる世界であってほしい。そう願うことで、自分もまた正しく生きようと思える。願いが、動機になる。
娘に「正しいことをしなさい」と言うとき、見返りを期待させたくない。正しいから正しくする。その純粋さを、伝えたい。
カントは厳しい。でも、その厳しさの中に、人間への深い信頼がある。「君たちはできるはずだ」という。
42年生きてきて、その信頼に応えられた日は少ない。でも、応えようとすることはできる。カントが教えてくれたのは、その「しようとする意志」こそが大事だということだ。