「最大多数の最大幸福」
この言葉を最初に聞いたのは、大学の一般教養だった。ベンサムという人が言い出したらしい。わかりやすい。幸福の総量が最大になる選択をすればいい。
でも、社会人になって20年、この「シンプルな原理」がどれだけ複雑な問題を生むか、身をもって知ることになった。
幸福は計算できるか
ベンサムは本気で「幸福を計算できる」と考えた。
快楽の強度、持続時間、確実性、近さ、多産性(他の快楽を生むか)、純粋性(苦痛を伴わないか)、範囲(何人に及ぶか)。これらを数値化して足し算すれば、どの選択が「正しい」かわかる。
理論としては美しい。でも、実践は無理だ。
会社の忘年会の場所を決めるとき、全員の「幸福度」を計算したことがある。Aさんは和食がいい、Bさんは洋食がいい、Cさんはお酒が飲めない……。結局、誰も満足しない中華料理屋に落ち着いた。
これが「最大多数の最大幸福」なのかどうか、僕にはわからない。
トロッコ問題という悪夢
功利主義の問題点を浮き彫りにする思考実験がある。トロッコ問題。
暴走するトロッコが5人の作業員に向かっている。あなたがレバーを引けば、トロッコは別の線路に移り、5人は助かる。でも、その線路には1人の作業員がいて、その人は死ぬ。
功利主義の計算は簡単だ。5人の命 > 1人の命。レバーを引くべき。
でも、実際にレバーを引けるだろうか。自分の手で人を殺すことになる。その重さは、数字では測れない。
似たような場面に、仕事で直面したことがある。
リストラの対象者リストを作れと言われた。10人切れば、100人の雇用が守れる。「最大多数の最大幸福」だ。でも、その10人の顔を思い浮かべると、手が動かなかった。
ミルの「質的功利主義」
ベンサムの弟子、ジョン・スチュアート・ミルは、功利主義を修正した。
快楽には質の違いがある。豚の満足より人間の不満の方が価値がある。愚者の幸福より、ソクラテスの不幸の方が価値がある。
「満足した豚より不満足な人間、満足した愚者より不満足なソクラテス」
つまり、単純な足し算じゃダメだと。高尚な快楽と低俗な快楽は、同じ物差しで測れない。
これで功利主義は少し洗練された。でも、新しい問題が生まれた。「高尚」と「低俗」を誰が決めるのか。クラシック音楽を聴くのは高尚で、アイドルのコンサートは低俗なのか?
僕はどちらも好きだ。どちらが「上」とは言えない。
少数者の犠牲
功利主義の最大の問題は、少数者の犠牲を正当化しかねないことだ。
10人の幸福のために1人が犠牲になる。100人のために10人が。1000人のために100人が。この論理をどこまで推し進めるのか。
ある臓器移植の思考実験がある。健康な人を1人殺せば、5人の患者が臓器を得て助かる。功利主義の計算では「殺すべき」となる。
でも、そんな社会に住みたいか。いつ自分が「5人のための1人」にされるかわからない恐怖の中で。
功利主義は、個人の権利を軽視しがちだ。「全体のため」という大義名分の下で、個人が踏みにじられる。歴史は、そういう悲劇で満ちている。
それでも「みんなの幸せ」を考える
批判を書いてきたけれど、功利主義を完全に否定することもできない。
政策を考えるとき、「何人が幸せになるか」を無視するわけにはいかない。限られた予算で、どの事業を優先するか。医療資源をどう配分するか。ある種の計算は必要だ。
僕が会社で決断を迫られるとき、無意識に功利主義的な計算をしている。「この選択で、チーム全体としては良い結果になるか」。一人一人の希望をすべて叶えることは不可能だから、最適解を探す。
功利主義の問題は、「それだけ」で判断しようとすることだと思う。数字に還元できない価値がある。計算では測れない尊厳がある。それを忘れなければ、功利主義的思考も使いようがある。
幸福の総量を増やすには
功利主義者のピーター・シンガーは、こう問いかける。
あなたが1000円で映画を見る幸福と、その1000円で救われる途上国の子どもの命。どちらを選ぶべきか。
厳しい問いだ。論理的には、寄付すべきだとなる。でも、毎回そう判断したら、僕は映画を一生見られない。
シンガー自身は収入の大部分を寄付しているという。それは立派だ。でも、全員にそれを求めるのは酷だろう。
僕なりの答えは、「できる範囲で、少しでも」だ。完璧な功利主義者にはなれない。でも、自分の幸福だけを追求するのでもなく、少しは「みんなの幸せ」にも貢献する。
年に数回、災害募金をする。近所のゴミ拾いに参加する。後輩の相談に乗る。大したことじゃない。でも、世界全体の幸福の総量が、ほんの少し増えるかもしれない。
それで十分なのかはわからない。でも、何もしないよりはいい。功利主義が教えてくれたのは、「自分の幸せ」だけで閉じないことの大切さだ。