30代半ば、会社を辞めようかと本気で悩んだ時期があった。
毎朝、同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、同じデスクに座る。10年後も同じことを繰り返している自分が見えた。「これでいいのか」という問いが、頭から離れなかった。
転職サイトに登録した。面接も受けた。内定ももらった。
でも、最後の最後で踏み出せなかった。妻がいる。住宅ローンがある。娘の教育費がかかる。「今じゃない」と自分に言い聞かせた。
あれは言い訳だったのか。それとも責任ある判断だったのか。今でもわからない。
サルトルなら、なんと言うだろう。
「実存は本質に先立つ」
ジャン=ポール・サルトルの実存主義は、この命題から始まる。
ペーパーナイフには「本質」がある。紙を切るという目的のために設計された。本質が先にあり、存在がそれに従う。
でも人間は違う。まず存在する。何者でもない状態で生まれてくる。そこから自分で自分を作っていく。人間には、あらかじめ決められた「本質」がない。
つまり、「こう生きるべき」という設計図はない。自分で描くしかない。
これを読んだとき、解放感と恐怖を同時に感じた。
自由の刑
サルトルは言った。「人間は自由の刑に処せられている」。
自由は贈り物じゃない。刑罰だ。選べること、選ばなければならないことが、重荷になる。
あの転職の場面を思い出す。「家族がいるから」「ローンがあるから」と言った。でもサルトルに言わせれば、それは「自己欺瞞」だ。
家族がいても辞める人はいる。ローンがあっても転職する人はいる。僕は「選べなかった」のではなく「選ばなかった」。その責任を外部に押し付けているだけだ。
これは厳しい。でも、否定できない。
不安と吐き気
サルトルの小説『嘔吐』の主人公は、存在の偶然性に気づいて吐き気を催す。
自分が存在することに、何の必然性もない。両親が出会わなければ、僕は存在しなかった。宇宙にとって、僕がいようがいまいが、何も変わらない。
この認識は、不安を生む。足場がない感覚。何かにすがりたい衝動。
宗教、国家、会社、家族。人はさまざまなものにアイデンティティを預ける。「○○の一員である自分」として生きることで、不安から逃れようとする。
僕も会社員として、夫として、父として生きている。これらの役割が、僕を支えている。でも、役割を取り去ったとき、何が残るのか。裸の「僕」とは何なのか。
考えると、確かに不安になる。
選ぶことは世界を選ぶこと
サルトルの思想で印象的なのは、「選択の普遍化」だ。
自分が何かを選ぶとき、同時に「人間はこう選ぶべきだ」というメッセージを世界に発している。自分だけの問題じゃない。
転職しないことを選んだとき、僕は「家族を優先するべきだ」というメッセージを発した。転職を選んでいたら、「自己実現を優先するべきだ」というメッセージになっていた。
どちらが正しいかは、客観的には決まらない。僕が選ぶことで、僕は「人間とはこういうものだ」を提示している。
重い責任だ。
「地獄とは他者である」
サルトルの戯曲『出口なし』に、有名な台詞がある。「地獄とは他者である」。
これは人間嫌いの発言じゃない。他者のまなざしによって、自分が規定されてしまうことへの洞察だ。
僕は他者から見られている。「あいつはこういう人間だ」と評価されている。その評価が、僕自身を縛る。「期待される自分」を演じてしまう。
会社での僕、家での僕、友人といる僕。どれも少しずつ違う。どれが「本当の僕」かわからない。全部演技なのかもしれない。
サルトルは、そういう状況から逃げるな、と言う。他者の存在を受け入れた上で、それでも自分を選べ、と。
アンガージュマン(参加・関与)
サルトルは象牙の塔にこもらなかった。政治に参加し、発言し、行動した。ベトナム戦争に反対し、植民地解放を支持した。
これを「アンガージュマン」と呼ぶ。関与すること。傍観者でいないこと。
自由であることは、責任を負うことだ。責任を負うことは、行動することだ。
僕は社会問題について意見を持っている。でも、声に出すことは少ない。波風を立てたくない。失うものがある気がして。
サルトルに言わせれば、それも一つの選択だ。「黙っている」という選択。その責任を、僕は負っている。
重荷を引き受ける
実存主義は、救いを与えない。神も、運命も、言い訳も、用意してくれない。
ただ、自由がある。そして責任がある。
42年生きてきて、逃げた場面も、選んだ場面もある。どちらも僕の選択だった。その総体が、今の僕を作っている。
これから何を選ぶか。それによって、僕は何者かになる。
重い。でも、誰かのせいにするより、ずっと誠実だと思う。サルトルの厳しさは、人間への敬意の裏返しだ。「君たちは自分の人生を作れる」という。
その自由を、重荷として引き受けること。それが大人になるということなのかもしれない。