その本を読んだのは、コロナ禍の最中だった。
緊急事態宣言で外出できず、仕事はリモート、娘は学校に行けず、妻はストレスを溜めていた。「これがいつまで続くのか」という先の見えない不安。世界が狭くなり、息苦しかった。
そんなとき、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を手に取った。
アウシュビッツからの生還
フランクルはユダヤ人の精神科医だった。ナチスによって強制収容所に送られ、両親、兄、妻を失った。自身も三年間、複数の収容所を転々とした。
飢餓、暴力、死。人間の尊厳が徹底的に踏みにじられる環境。多くの囚人が絶望し、命を落とした。
でも、生き延びた人もいた。フランクルはその違いを観察し、ある結論に達した。
「生きる意味」を見出せた人が、生き延びた。
意味への意志
フランクルはフロイトの弟子世代にあたる。でも、彼はフロイトとは違う道を歩んだ。
フロイトは人間を「快楽への意志」で説明した。アドラーは「力への意志」で。フランクルは「意味への意志」を提唱した。
人間を突き動かすのは、快楽でも権力でもない。意味だ。自分の存在に意味があると感じられること。それが人間を生かす。
収容所で、自暴自棄になった囚人を見てきた。「どうせ死ぬんだ」と。でも、生き延びた囚人は違った。「この経験を伝えなければ」「家族に再会するまでは」「研究を完成させなければ」。何かしらの意味を、見出していた。
問いの逆転
フランクルの思想で最も印象的なのは、「問いの逆転」だ。
普通、僕たちは「人生に何を期待できるか」と問う。人生から何かを得ようとする。
フランクルは逆だという。「人生が私に何を期待しているか」と問うべきだと。人生が自分に何かを求めている。その問いに答える責任が、自分にある。
これを読んで、視界が開けた気がした。
コロナ禍で「いつ元に戻るのか」「いつ好きなことができるのか」と嘆いていた。自分は被害者で、人生から何かを奪われていると感じていた。
でも逆に考えたらどうだろう。この状況が僕に何を求めているのか。家族と向き合え、と言っているのかもしれない。自分を見つめ直せ、と言っているのかもしれない。
問いを逆転させると、被害者から主人公に変わる。
三つの価値
フランクルは、人生の意味を見出す三つの方法を示した。
創造価値:何かを作り出すこと。仕事、芸術、日々の営み。 体験価値:何かを経験すること。美しいものに触れ、誰かを愛すること。 態度価値:避けられない苦しみに対して、どう向き合うかを選ぶこと。
最初の二つはわかりやすい。仕事に意味を見出す、趣味を楽しむ、家族を愛する。
でも三つ目が、フランクル思想の核心だ。
収容所では、創造する機会も、美を体験する機会も奪われていた。残されたのは「態度」だけ。この絶望的状況にどう向き合うか。そこにだけ、自由があった。
「人間からすべてを奪うことができる。ただ一つを除いて。どんな状況にあっても自分の態度を選ぶ自由、自分の道を選ぶ自由だけは」
苦しみの意味
フランクルは苦しみを美化しない。避けられるなら避けるべきだ、と言っている。
でも、避けられない苦しみがある。病気、喪失、老い、死。そのとき、苦しみにどう意味を与えるか。
父が亡くなったとき、僕は意味を見出せなかった。ただ悲しく、ただ空虚だった。
でも時間が経って、少しずつ変わってきた。父の生き方を振り返り、自分の生き方を問い直す。父が伝えたかったことを、娘に伝えようとする。父の死は、僕を変えた。
苦しみ自体に意味があったのではない。僕が意味を与えたのだ。
「意味は見つけるもの」
フランクルは、意味を「作る」とは言わない。「見つける」と言う。
意味は外側にある。状況の中に、他者の中に、課題の中にある。それを発見するのが人間の仕事だ。
毎朝の通勤電車。つまらないルーティン。でも、見方を変えれば、意味はある。この仕事で誰かの役に立っている。この給料で家族を養っている。この経験が、いつか何かに繋がる。
意味が「ない」のではない。見つけていないだけだ。
絶望の中の希望
フランクルの思想は、逆説的に希望を与える。
どんな状況でも、意味を見出す可能性はある。態度を選ぶ自由は奪えない。人間には、最後の砦がある。
コロナ禍は僕にとって試練だった。でも、フランクルの経験に比べれば、取るに足らない。彼が収容所で希望を失わなかったのに、僕が緊急事態宣言で絶望してどうする。
『夜と霧』の最後の方に、こんな一節がある。
「それでも人生にイエスと言う」
三年間の地獄を経験した人が、それでも人生を肯定する。その重みを、僕はまだ完全には理解できていないと思う。でも、その言葉は確かに、僕の中で生きている。