桜の季節になると、毎年同じことを思う。
「あと何回、この桜を見られるだろう」
子どもの頃は考えもしなかった。桜は毎年咲くものだった。でも42歳になると、残り回数を数えてしまう。平均寿命まで生きるとして、あと40回くらいか。
暗い考えだと思うかもしれない。でも不思議なことに、そう思うと桜がより美しく見える。
日本人は昔から、こういう感覚を持っていたらしい。「無常」という言葉で。
「ゆく河の流れは絶えずして」
『方丈記』の冒頭は、日本人なら誰でも知っている。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
鴨長明は、火事、竜巻、飢饉、地震を経験した。栄華を誇った人々が没落するのを見た。そして悟った。すべては移り変わる、と。
西洋哲学なら、これは悲観論になるかもしれない。すべてが無意味だ、と。でも長明は違った。無常を受け入れた上で、小さな庵で静かに暮らすことを選んだ。
無常は絶望の理由じゃない。執着から解放される契機だ。
「もののあはれ」
本居宣長は「もののあはれ」という言葉で、日本人の感性を説明した。
「あはれ」は悲しみだけを意味しない。心が深く動かされること。美しいものを見て感動すること。切ないものに触れて胸が締め付けられること。
桜が美しいのは、散るからだ。永遠に咲き続ける桜があったとしても、僕たちはそれほど感動しないだろう。限りがあるから、美しい。
人生も同じなのかもしれない。
「諸行無常」の再解釈
仏教的な「諸行無常」は、日本に来て独自の発展を遂げた。
インドでは、無常は苦しみの原因として説かれる。変わるものに執着するから苦しむ。だから執着を断て、と。
日本では、無常そのものに美を見出す方向に進んだ。変わるからこそ美しい。散るからこそ愛おしい。
平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」は、滅びの悲しみを歌っている。でも同時に、滅びゆくものへの深い共感がある。敗者への眼差しがある。
「一期一会」
茶道の言葉「一期一会」。一生に一度の出会いと思って、相手を大切にする。
同じ人と何度も会うことはある。でも、「今日のこの瞬間」は二度と来ない。相手の体調も、自分の気分も、天気も、光も、何もかもが違う。まったく同じ茶会は、二度と再現できない。
だから、一回一回を大切にする。
会社の会議ですら、そう思えば変わる。「この面子でこの議題を話すのは、今日だけかもしれない」。そう思うと、少しだけ真剣になれる。
「花は桜木、人は武士」
江戸時代の諺に「花は桜木、人は武士」がある。潔く散ることを美徳とする価値観。
これは危険な方向にも行きうる。命を軽んじる思想に繋がりかねない。特攻隊を美化するような。
でも、本来の意味は違うと思う。限りある命だからこそ、どう生きるかが問われる。永遠に生きられるなら、今日サボっても明日がある。でも、いつ終わるかわからないなら、今日を全力で生きるしかない。
「明日死ぬとしたら、今日何をするか」。よく聞く問いだ。でも日本人は、この問いを日常に溶かし込んできた。茶を点てるとき、花を生けるとき、庭を掃くとき。今この瞬間に全力を注ぐ。
「侘び寂び」の深み
茶道や俳句で重視される「侘び寂び」。不完全なもの、古びたもの、簡素なものに美を見出す感性。
新品のピカピカした茶碗より、使い込まれた味のある茶碗。満開の桜より、散り際の桜。完成されたものより、余白のあるもの。
これは無常観と繋がっている。すべては変わる。だから、変わりゆく姿に美がある。完璧なものは、変わる余地がない。不完全なものは、変わり続ける可能性を持っている。
僕の部屋に、祖父の形見の木製の箱がある。傷だらけで、色も褪せている。新品の箱の方が「良い」かもしれない。でも、この箱には時間が染み込んでいる。祖父がこれを使っていた何十年という時間が。
その時間こそが、美しいのだと思う。
今を慈しむ
無常観は、厭世観じゃない。
すべてが移り変わるなら、今この瞬間を慈しむしかない。過去に執着しても、未来を恐れても、変化は止まらない。できることは、今ここにいることだけ。
娘がまだ手を繋いでくれる。でもあと数年で、たぶん繋いでくれなくなる。その変化を嘆くより、今この瞬間の小さな手の温もりを、味わいたい。
妻と過ごす時間も、有限だ。どちらかが先に死ぬ。その事実から目を逸らさず、だからこそ今日の会話を、今日の食事を、大切にしたい。
無常を知ることは、今を大切にすることに繋がる。日本の先人たちは、そのことを知っていた。
散る美しさ
今年も桜が散った。花びらが風に舞い、地面をピンクに染める。
「もったいない」と思う気持ちと、「だから美しい」と思う気持ちが、同時にある。
この両方を抱えていることが、日本的な幸福の形なのかもしれない。失う悲しみを否定せず、でも失うからこそ愛おしいと感じる。
複雑だけど、深い。
来年も桜を見られますように。でも、見られなくても、今年の桜を見た記憶は、僕の中に残る。それで十分だと、思えるようになりたい。