娘が中学生の頃、反抗期で口もきかなかった。何を言っても「うざい」。何をしても「いらない」。父親の存在意義が、わからなくなった。
そんなとき、アドラー心理学の本を読んだ。『嫌われる勇気』。ベストセラーになった本だ。
最初はピンとこなかった。でも、「共同体感覚」という言葉に出会って、何かが変わった。
劣等感は悪くない
アドラー心理学といえば「劣等コンプレックス」が有名だ。でもアドラーは、劣等感自体を否定しているわけじゃない。
人間は誰でも劣等感を持っている。それは当然だ。完璧な人間などいない。劣等感があるから、成長しようとする。
問題なのは、劣等感が「コンプレックス」になったときだ。劣等感を言い訳にして、行動しなくなる。「どうせ自分なんか」と諦める。
アドラーは言う。劣等感を感じたら、それを克服するために努力すればいい。劣等感は、成長のエンジンになりうる。
人生の嘘
アドラーの厳しい言葉に「人生の嘘」がある。
「忙しいから○○できない」「あの人のせいで失敗した」「生まれつき向いていない」
これらは全部、人生の嘘だという。本当はやりたくないから、やらない言い訳を探しているだけ。
僕も使っていた。「仕事が忙しいから、家族との時間が取れない」。本当は、家族と向き合うのが怖かっただけかもしれない。仕事を言い訳にしていた。
人生の嘘を暴かれると、逃げ場がなくなる。厳しい。でも、逃げ場がないからこそ、向き合える。
課題の分離
アドラー心理学で最も実践的な概念が「課題の分離」だ。
これは誰の課題か。自分の課題か、相手の課題か。
娘が勉強しない。これは誰の課題か。娘の課題だ。勉強するかしないか、その結果を引き受けるのは娘自身。僕の課題じゃない。
僕にできるのは、「勉強は大事だと思う」と伝えること。「困ったら相談に乗る」と示すこと。それだけ。強制はできない。
この考え方を知って、少し楽になった。娘の人生は娘のものだ。僕がコントロールしようとすること自体が、おこがましかった。
承認欲求を捨てる
アドラーは「承認欲求」を否定する。
他人に認められたいと思って行動すると、他人の人生を生きることになる。他人の期待に応えようとして、自分を見失う。
僕は会社で、上司に認められたくて頑張っていた。評価を気にして、残業して、成果をアピールして。認められると嬉しかった。認められないと落ち込んだ。
でもそれは、上司の人生を生きていたのかもしれない。
アドラーは言う。認められなくても、自分が正しいと思うことをやれ、と。他人の評価ではなく、自分の信念に従え、と。
難しい。でも、たまに実践できるようになってきた。「誰も見ていなくても、これは正しいからやる」。その選択ができたとき、不思議と満足感がある。
共同体感覚
アドラー心理学の最終目標は「共同体感覚」の獲得だ。
共同体感覚とは、「自分は共同体の一員である」「共同体に貢献できている」という感覚。
共同体は、家族、会社、地域、国、人類、宇宙にまで広がりうる。どの範囲でもいい。「自分はここに居場所がある」「自分は役に立っている」と感じられること。
これが幸福の本質だとアドラーは言う。
「貢献感」という幸福
共同体感覚の具体的な形が「貢献感」だ。
誰かの役に立っている、という感覚。それが幸福の源泉になる。
面白いのは、実際に役に立っているかどうかは問題じゃない、という点だ。主観的に「役に立っている」と感じられればいい。
娘に何かをしてあげても、「うざい」と言われる。客観的には、役に立っていないように見える。でも、僕は娘のことを思って行動した。その行動自体に、意味がある。結果は娘の課題だ。僕は自分の課題を果たした。それで十分だと、アドラーは言う。
所属と貢献
人間には、「所属したい」という欲求がある。どこかに属していたい。仲間が欲しい。
でもアドラーは、所属は「もらう」ものじゃないと言う。「貢献する」ことで得るものだ。
何かをしてもらうから仲間になるのではない。何かをしてあげるから仲間になる。
会社でも、「給料をもらうから働く」より「貢献するから働く」と思えた方が、居場所の感覚が強くなる。家庭でも、「養ってもらう」より「支えている」と思えた方が、所属の感覚が強くなる。
貢献することで、所属する。順番が逆だった。
娘との関係
娘は今、高校生になった。反抗期は少し落ち着いた。
僕は変わったと思う。娘をコントロールしようとしなくなった。認められようとしなくなった。ただ、「ここにいるよ」と伝えるだけ。
たまに、娘が話しかけてくる。学校であったこと、友達のこと、将来のこと。全部を話してくれるわけじゃない。でも、話しかけてくれることが、嬉しい。
僕は娘の役に立っているのか。正直、わからない。でも、役に立とうとしている。その姿勢を、娘はどこかで見ているかもしれない。
貢献感。これが幸福なのかもしれない。結果はわからない。でも、貢献しようとしている自分は、確かに満たされている。